「正義感」という言葉は、人々の生きる糧にもなるが、ときには凶器となって暴走する。過去にも繰り返されてきた悲劇が、また起きた。

 

 1月18日、兵庫県の竹内英明県議が亡くなった。文書問題で斎藤元彦知事に対する告発内容を調査する県議会の調査特別委員会(百条委員会)の委員だった。ネット空間に押し寄せる誹謗中傷に追い詰められた末の自殺だと言われている。


 その竹内県議をターゲットのひとりにしてきたのが、「NHKから国民を守る党」の立花孝志氏だ。斎藤氏が告発されたパワハラについて「一切しておらず冤罪だ」と擁護し続けてきた。告発文書を作成した西播磨県民局長(当時、2024年7月に自死)こそ犯罪者で、在職中に公用パソコンでつづったというプライバシーを暴露し、「悪」のレッテルを張ってきた。


 一方、斎藤氏を批判してきた、いわゆるオールドメディアや百条委員会、そして5期20年間続いた井戸敏三前県政も含めて「既成勢力」と称して批判の矛先を向けた。こういった新しい「真実」を掲げ、斎藤氏を救うことこそ「正義」だと訴えた。斎藤派、反斎藤派という対立構造を煽り、反斎藤派の急先鋒とされた竹内氏が誹謗中傷の的となったわけだ。


 これほどの短期間に世論が大きく振れたのは、「正義」という言葉の持つエネルギーだ。かつては為政者が世論を動かすために使ったが、ネット社会にあっては、さらに短期間で拡散されて容易に世論の風向きを変えることができる。立花氏は、善と悪を逆転させた新しい「真実」を勧善懲悪に乗せて、聴衆を奮い立たせた。人の心をかき立てるナラティブ(ストーリー)はSNSの世界に引き継がれ、極めて短期間に拡散して県民の心を揺さぶった。


 だが、正義の向こう側には、必ず別の正義が存在することを忘れてはならない。正義が本当に正義であるためには、最低でも事実で担保されていることが必要だ。事実を置き去りにしたデマに支えられた正義は危うい。


 立花氏の「真実」を検証してみると、まさに、その危うさが浮かび上がってくる。